アニカは「教え」ではない

先日、対面を受けてにきてくれた方が、「アニカはそういう教えなのですね」とおっしゃって、そのときには特に気にとめていなかったのですが、その後のメールで、「教えに従う」という言葉が出てきたので、これは誤解を解かなければ、と思いました。

その方は、アニカではなく、あるスピリチュアル系の「教え」を実践している方です。

「教え」というのは、宗教やスピリチュアル系では大多数をしめていると思いますが、要するに、「こうしたらあなたはもっと意識の高い存在になれますよ」という「真理」を伝えるものです。

この「教え」に従えば、もっと「意識の高い人間」「すぐれた人間」「よい人間」「正しい人間」になれると思うから、みんな、その「教え」を実践するのでしょう。
 
 
しかし、アニカの目指すところは、「意識の高い人間」「すぐれた人間」「よい人間」になることではありません。

では、アニカではどのような存在を目指すのか?

心の中から他人由来の信念、感情記憶をできうる限り取り除いた純度100%の「本来の自分」です。

他人が作った「真理」など、「本来の自分」の実現には必要ない、という考え方です。
 
 
そもそも、この世界に誰にでも適用可能な客観的な「真理」など存在しません。

「真理」は、人の数だけ(意識の数だけ)存在するのです。

そのただひとつの自分だけの「真理」を認め、尊重することが、ひいては他人の「真理」を認め、尊重することにつながります。

そこには「誰が正しい?」という宗教戦争は存在しません。

日本には「八百万の神」という言葉がありますが、あれはそのころの人口が八百万だったから、という説もあります。

ひとりひとりを神と認め、お互いを尊重するような社会があったのかもしれません。
 
 
話はちょっとずれますが、最近、ネットで異なる種の動物たちが仲良くしている画像や動画を見ることが多いと思います。

たとえば、こんな感じです。
http://entermeus.com/118821/
 
 
彼らは言葉をもっていません。しかし、彼らが実現している愛は、人間が言葉で作った「真理」をはるかに超えています。

言葉で作った概念でアタマのなかをパンパンにして、我こそは賢い人間、優れた人間と思っている人たちが、自分も他人も愛せなくて争いあっているのは、どういうことなのか?

そのことを、私たちはよく考えてみるべき時期に来ているのではないか、と思います。


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