自分が感じたことを生きる基準にする

なぜ私たちは
自分たちの感覚ではなく、
論理的な言葉や数学で表現できる
唯物的、科学的な世界観を
絶対的なものと考えてしまうのか?

この問いは、
「奇跡を考える」村上陽一郎(著)
を読むことでほぼ氷解しました。

 


スコラ学で
「神は2つの書物を書いた」
と言われるその2つの書物とは
聖書と自然です。

聖書は象徴的・多義的なので
人間による多義的な解釈は
信頼できない。

それに比べて自然の言葉
(物質と運動)は明証的な
数学にもとづいているから
信頼性がある。

それが17、18世紀から
現在まで続いている
科学の信頼性の根拠でしょう。



しかし私たちが
人間を含む自然の前で
五感を使って感じてみたときに
「数学的に表現される物質の運動」
にはおさまらない
大量の情報を感じることも事実です。


その情報をとらえるには
人間の「感じる心」を
抜きにすることはできません。


数学や言葉の抽象度は
比較的低いので、
たとえば私たちが日常的に
実感している「愛」という概念を
数学や論理的な言語で

表現しつくすことはできません。


つまり論理や数学が
とらえている世界は
ごくわずかな領域なのです。

マルクス・ガブリエルならば

それは数多くある意味の場の

ひとつにすぎず、

ある意味の場が世界全体を

仕切ることはありえない、

(そもそもそうした世界全体という

ものは存在しない)

と言うでしょう。




今、私たちに必要なのは
外側の基準に自分を合わせて
生きるのではなく、
自分が今、何を感じているかを
明確に把握して、
自分が感じたことを

生きることの土台にすることでは
ないかと思うのです。


今年はそんな生き方をする人が
増えていくのではなかと
考えています。


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