最近、アーシュラ・K・ル=グウィン作の著名な「ゲド戦記」を読んでいるのですが、1巻目は陰陽合一の話、そして何と2巻目は「脱にょろ」の話なのです。ある巫女さんの脱にょろ話が感動的に描かれていますので、ぜひ読んでみてください。
さて、「にょろ」とは何でしょう?
自分の本当の姿を見ないようにしながら、自分や世界を美化して生きることです。
自分が感じていることを無視して、外側の人や価値観に依存して生きることです。たとえば、宗教はどれも典型的なにょろです。
「にょろ」はスピ系に限りませんが、スピ系の不思議な世界の不思議なことに心奪われて、自分の足もとを見ないことでもあります。
「覚醒」とかいう甘い言葉(?)を聞いたら、注意が必要です(笑)。
アニカは、自分が感じていることを外部の価値基準より尊重します。
よく「他人のネガティブをもらう」人の話を聞きますが、「他人のネガティブをもらう」のは、自分が感じていることよりも他人が感じていることを優先して感じているから起こることです。
そういう人は、自分が本当に感じていることを無視して、外部の価値基準(こうしなさい、こうしてはいけない)に合わせることばかり気にしているのです。
宗教の「ありがたいお話」にはついつい手を合わせてしまいそうですが、ニーチェの「宗教の道徳は弱者のル・サンチマン(恨み)でできている」という話を思い出して、グッとこらえましょう。w(参考文献:「史上最強の哲学入門」飲茶(著))
自分が感じていることをちゃんと認めて、感じ、尊重することで、感じる能力は取り戻されていきます。(アニカマスターコースでやっていることは、ほとんどこれだけと言っても過言ではありません。)
同時に、外部から何を言われようと、「私はこうだから」と落ち着いていられるようになります。驚くべきことに、自分の感じていることに周囲が巻き込まれて、自分に対する態度が、まるで手のひらを返したように変わることさえあります。
もちろん、自分が感じていることのなかには、自分に都合が悪いこともあります。自分のなかの怒り、無価値観、自己評価の低さ、不安、妬み、さびしさ、悲しみなども、避けることなく感じる必要があります。
なぜなら、そうしたネガティブな感情が心のなかにあるのは、自然なことだからです。
しかし、「にょろ」は、そうしたポジティブもネガティブも混在する自然な心の在り方が居心地悪くて我慢できません。自分の心をポジティブなこと、白一色で塗りつぶさないと気が済まないのです。あるいは、自分の心は白一色だ、と信じ込みたいのです。そんな不自然なことはないのに。
「にょろ」は、一見、自分が感じていることを大切にしているように見えますが、実は自分のなかのヤバい部分はかたくなに見ないようにしているのです。それは、自分の本当の姿を見ようとせずに、主観的な世界に閉じこもる生き方です。
自分の本当の姿を見ないのですから、客観的に見てどんなにマズいことが起こっていようとも、「自分は大丈夫」「自分のことは自分が一番わかっている」と直そうとしません。
こういう生き方は周囲にとっても迷惑ですが、「にょろ」はむしろ自分のことを被害者だと思っています。被害者ゆえに自分は正しい、という思いがあるのでしょう。
アニカはこうした「にょろ」的な生き方を丸裸にしていきます。それに耐えられない人には、アニカは無理ですし、敵意を抱かれることさえあります。
アニカは正気になること、つまり自分の心にネガティブな感情があることを認め、それを素直に感じることを実践していきます。そのご褒美は、自分のネガティブな部分もつつみ隠さずに(つまり「あるがままの自分」で)自分らしく生きられること、家族や周囲の人たちにそのままの自分を表現して、仲良くできるようになることです。
そうした結果を出すためには、自分の心にあるネガティブな感情を認めて感じる、という精神的にも身体的にも痛みを伴う作業が必要です。ひとりでやるのはつらいですが、幸いなことにアニカはひとりで行うものではありません。いっしょに自分の心を見るというつらい作業をしてくれる仲間がいます。
正直に自分の心を見ることができる人たちの社会を作っていけたらいいな、と思います。
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「アンチにょろ」 by 谷津絵美子