私はアニカを始めてから5年間、アニカは誰にでもできる、と言い続けてきました。確かに、それは単純に「アニカができる」という意味では間違っていないのですが、今年に入ってから、自分の心のなかで、はっきりしてきたことがあって、それは「アニカは誰にでもできるものではない」ということです。
どういうことかというと、私がアニカを始めるときから思ってきたのは、アニカとは「他人の観点を借りて自分の心の見たくないところを見る」ものである、ということです。
これは、よく考えてみるまでもなく、とてつもなくきついことです。自分のイヤなところを自分で見るのにも抵抗があるのに、それを他人から見てもらって感じてもらう。それは間違いなく、つらいことでしょう。
でも、前回のブログに書いたように、アニカは太極図を全部白で塗りつぶそうとは考えていません。ポジティブもネガティブも両方あって「自分」を構成している、ということが自然なのです。つまり、どれだけあなたの中にイヤなものがあったとしても、それはそこにあることが自然なのです。
子どものころに気づきませんでしたか? 大人は良い人になれ、というけれど、そういっている大人がぜんぜん良い人でも何でもないことに。おそらく、子どものなかには「自分の中を全部良いもので埋めつくそう」なんて理想論はないのです。子どもは無心でただ遊んでいるだけです。私たち大人は、日々の生活にかまけて、もう一度その状態に戻ろうなんて考えようともしないですが、アニカはそこに戻ってみようとするのです。
自分は「良い人」でも「悪い人」でもない、自分は「自分」でしかない。それが腑に落ちたときに、やっと自分は自由になれるのです。
だから、「自分のなかにある見たくないもの」は、世間的に見れば悪ですよ。でも、悪が自分のなかにあるのは自然なことなのです。それをただ認めればいいだけです。それを否定するのは、嘘つきの「にょろ」ですよ。
自分のなかに悪があるのには、理由があります。それをよく理解してあげる必要があるのです。私は小学校のときに考えたことを今でも覚えています。「自分のなかの『悪いところ』を認めてあげないと『悪いところ』がかわいそうだ」と。
アニカをすることは、心のなかの『開かずの間』を開けてきれいに掃除することを意味します。アニカはいわば『開かずの間』の掃除を受託した清掃業者のようなものです。しかし、『開かずの間』を開けるという決定は、その人にしかできません。清掃業者が勝手に人の心を開けて掃除するわけにはいかないのです。そこらへんは、よくできています。
もし今生で心の掃除ができなくても、容赦なく来世はやってきます。今生で掃除するのも、来世で掃除するのも、その人の自由です。
人間は、今回生きている人生で終わりではない。ということは、以前にもたくさんの人生を送ってきたはずで、それもまた全部自分なのです。それがよいことか、悪いことか、私にはわかりませんが、今回の人生を楽しくしっかりと生きていきたいものです。