「感じる」ことでなぜネガティブが消えるのか?(2)

アニカでは、前回書いたような「抽象度の高い観点」を利用しているのでしょうか?

それは、私が観察の瞑想であるヴィパッサナー瞑想合宿に行った直後に、アニカができるようになったことと、体験談にあるように、ちょっと考えられないぐらいの変化がクライアントさんに起こることなどから、そうなのではないか、と私は考えています。


ぶっちゃけ書いちゃいますと、アニカの観点というのは、私には、地球上の人間のものではないように感じられます。アニカというのはもともとおとめ座のあたりにいた宇宙的な存在で(どうやらそれは私の過去世らしいです)、私が瞑想合宿で身体の感覚がなくなる経験をしたときにつながったのではないかと考えています。

私が感じるアニカの観点というのは、まるで宇宙人が宇宙空間から地球を見下ろしているような抽象度の高さなのです。そうでなければ、クライアントさんに、あれほどド派手な変化は起こらないように思うのです。

アシスタントの谷津は、よくアニカからバージョンアップを受けていました。テレビでドラえもんをやっていて、子どもたちがそれに集中しているときに、家の2階に呼ばれて、そこでアニカからアニカを受け、何かもらったように思って感じてみると、バージョンアップされたアニカだった、ということがよくありました。


まぁ、こうしたことを宇宙系ヨタ話と聞いていただいて結構なのですが(笑)、バシャールと同じで、そういう存在が本当にいるかどうかはわからない、でも地球上でちゃんと結果が出ているならそれでよしとしよう、というわけです。

 

抽象度の高い観点と観察の瞑想の関係について、もう少し述べておくと、

抽象度が低い=主観的
抽象度が高い=客観的

という関係があって、主観的というのは要するに「思い込み」のことです。それに対して、客観的というのは「思い込み」であることに気づいている、ということ。

観察の瞑想というのは、心のなかから湧き上がってくる思考や感情をできるだけ客観的に見ていくのですが、そういうトレーニングをしていくうちに、抽象度の高い瞑想の観点が徐々に確立されていき、自分の主観的な思い込みに気づくことができるようになっていきます。


しかし再三申し上げているように、私はひとりで瞑想しているだけでは、自分の主観的な思い込み(=潜在意識のなかのネガティブ感情がリアリティを与えている信念)に気づくことは難しく、気づくには他者の観点が欠かせない、と考えています。

その「他者の観点」の抽象度は高ければ高いほどいいのですが、その理由は、同じようなネガティブをもっている同士で観察しあっても、お互いのネガティブが同調してネガティブまみれになる(つまり「もらってしまう」)結果になると思われるからです。

結局、「もらう」という現象は、相手のネガティブな感情を感じているうちに、自分のなかにある同じネガティブな感情が出てきて、巻き込まれるだけなのです。

抽象度の高い観点をもっていれば、こうした同調は起こりません。アニカであれば、感じていくだけで、相手のネガティブも自分のネガティブも消えていきます。


したがって、抽象度の高い観点を得るには、自分のなかからネガティブな思い込みができるだけなくなっている必要があります。それは簡単に言ってしまうと、「いやされている」ということです。

つまり、いやされればいやされるほど抽象度は高くなり、「どうでもよい」という、世界を自由に見ることができる観点が確立されていきます。その抽象度の高い観点が注意を向けるだけで、他者の「こうでなければ満たされない」という深い思い込みのネガティブが粉砕されるのです。

自分が本当にいやされ、満たされていれば、周囲の人の苦しみにも落ち着いて対処できるでしょう。自分が満たされていない状態、いろいろなことを我慢している状態では、周囲の人の苦しみに同調して、さらに苦しむことになります。

(続く)


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