楽になることへの抵抗

人はなぜ苦しむのか? それは常に「考えて」いるからといえるでしょう。

いったい何を考えて自分を苦しめているのでしょうか?

「自分がちゃんとしているかどうか?」
「自分がきちんとしているかどうか?」

「社会の中で、自分は認められているか?」
「人として価値ある存在であるか?」

そして、

「自分は期待されたことを失敗することなくやり遂げることができるのか?」

という不安、心配が常に頭の中を占めています。

 

一瞬、一瞬、その場でやるべきことを何も考えずにただ(楽しんで)やればいいだけなのに、1時間後、2時間後、半日後、明日の心配をして、しかも思いっきり力を込めて心配するので、それだけでへとへとになってしまうのです。

楽になることに抵抗があるのです。人間は何て不思議な生き物なのでしょう。

自分が考えていることが、自分を縛っていることに気づけばいいだけなのに。

 

 

では、どうやったら考えるのをやめることができるでしょう?

いろいろあるでしょうが、おそらく自分の中の「悪」を認めて許すことが究極の道ではないかと思います。

みんな、自分の中の「悪」を認めることができないので苦しむのです。

完璧主義の人ほど、自分の中の「悪」を許すことができません。

完全な「善」なる存在なんて、肉体をもった人間がなりうるものではないのに。

人の心の中には、「善」も「悪」も共存して自然な状態なのです。

自分は自分であって、「善」も「悪」もない、といった方がいいでしょうか。

「善い人」になるのではなく、「自分」になることこそが重要なのです。

 

「善い人」になろうと自分が我慢していることを他人が自由にやっていると、勝手だといって怒ります。

自分が我慢することをやめればいいだけなのに。

「だって、世の中には我慢してやらなければならないことがたくさんあるでしょう?」

いやいや、それは世の中が押しつけているように見えるかもしれないけど、それを受け入れるかどうかは自分の自由です。

 

生き方は人の数だけあります。

社会(あるいは親が)が「こうしなさい」と提案する(時には押しつける)生き方以外の生き方が無限にあるでしょう。

いろいろ試してみてはいかがでしょう?

 

結局、「自分がいかに自由に考えられるか?」が決め手であり、それにはこの人間社会を客観的に眺められる観点がどうしても必要です。

人間社会という鍋の中にいたままで鍋をかき回すことはできません。鍋をかき回すときは、必ず鍋の外に出て鍋をかき回さなければならないのです。

 


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