今日は著しく趣味的な話で
恐縮なのですが、
私は昔から、けっこう仏教の本を
読んでいて、最初は本当に
よくわからなかったのです。
それで、いろいろ調べているうちに
だんだんそのよくわからない理由が
はっきりしてきて、
それは宗教でよくあるように
創始者の言っていたことが
まるで伝言ゲームのように
内容が変遷していき、最後には
まるで言っていることが
180度違う、みたいなことが
仏教の場合も起こっている、
ということなのです。
だから、これも仏教、
あれも仏教と言われても、
それはそれでいいけれど、
創始者の言っていたことは
本当はどういうことなのか?
ということを知りたいと
常々思っていました。
そういう点では、さすがに最近は
いろいろ情報が整理されてきて、
最近、決定的な本を見つけて
かなり納得しました。
私の理解は、そんなに
的外れなものではなかったことが
わかったのです。
で、その周辺に現代の仏教を
実践しているような人たちがいて、
その人たちの言うことを
聞いていて、首をかしげる
ことが多いのです。
もともとブッダが言っていたのは、
私たちが頭の中で繰り広げている
妄想の世界を終わりにして
(それが悟りとか解脱とか
涅槃ということなのですが)
平和に生き死ぬことなので、
もちろん在家信者のサポートも
しましたが、本来は
労働も生殖もしないというような
極端に非社会的なことを
実践していたのです。
でも、現代の仏教を実践している
人たちはどうしても
社会の中で生きている人たちの
サポートをしようとしている。
それはいいんだけれど、
それをやるときに反省的に
「社会的妄想」の外に出ることなく
やっていて、それが何とも
私にとって「非ブッダ的」で
居心地が悪いのです。
ちょっとアメリカの
精神分析みたいなところがあって
精神疾患の人が社会に順応して
生きられるようにするため、
分析をしていて、だから
分析家は(社会に順応できる)
人格の立派な人で
なければいけない、みたいな
話があって、それに
ジャック・ラカンのような人は
反発したのです。
ラカンが言っているのは、
「人はみな精神疾患」であり
その精神疾患に自分で
折り合いをつけて
納得して生きていくしかない、
ということです。
同じように、
ブッダにはある意味、
妄想にどっぷり浸っていることに
気づこうとしない
人間社会への批判みたいな
ところが多分にあります。
たとえば
ブッダは「一切衆生を救う」
なんてことは言っていないのです。
「話がわかる人が
少しはいるかもしれないから、
その人たちに教えましょう」
という立場です。
「一切衆生を救う」なんて
どう考えても
「妄想」ではないですか?
ということです。
アニカのゴールは、
「家族仲良く生き合うこと」
なので、もちろん労働も生殖も
肯定しますが、
そのためには各自が「妄想」の
外に出ることは必要だと
考えています。
なぜならそれが
人がまっとうに生きる
唯一の道だからですね。