昨日の「インドの龍」の記事を読んだ谷津が「龍とにょろをいっしょにしてはいけないのではないか」と言うので、どういうこと?と聞いたら以下のような答えが返ってきました。
ちなみに「にょろ」に関しては、以下の記事をご覧ください。
以下、谷津の話。
「昨日、龍を感じてみたのですが、龍とにょろ(蛇)をいっしょにしてはいけないのではないか、と思ったのです。
「人のため」と言いながらも、にょろは自己保身でやっている。結局は、自分のためにやっているのですが、それを自分にさえ隠蔽して「善意」でやっていると見せかけているところがある。
だけど龍は、自分がボロボロになりながら本当に「人のため」にやっているところがあるのです。
龍もにょろも人が作ったものです。しかし作った人の心が違うので、そのような違いが感じられるのでしょう。
しかし龍を作った人は、他人が幸せになることと自分が幸せになることは同じであるということが、わかっていなかった。
だからボロボロになったと思うのです。」
ちょっと補足しますと、私たちは物理世界に生きています。物理世界にはさまざまな制限がありますから、あちこちでトレードオフの関係が成り立ちます。要するに、あちらを立てればこちらが立たず、あっちを優先するとこっちが犠牲にならざるを得ない、ということです。
しかし、メタフィジカルな心の世界には、こうしたトレードオフはない。もし心の世界にトレードオフがあると信じているなら、それは物理世界に生きる制限だらけの臨場感に巻かれている、ということです。
人間万事塞翁が馬の話のように、ある瞬間にネガティブと思われることは、次の瞬間にポジティブに変化することがある。それは心のなかで観点を変えることによって不幸が幸福に変わることがある、ということです。
馬が逃げたとか息子がケガをしたという事実それ自体には、本来ネガティブとかポジティブとかいう価値判断はついていない。その価値判断を事実に貼り付けているのは、人間の心なのです。
だから、心の世界でものの見方を変えることによって、事実をネガティブにもポジティブにも自由自在に観ることができる。
心の世界にはトレードオフはないのだから、人の幸せが即自分の幸せになることもある。。むしろ、自分が優先して幸せになることで、それが即、人の幸せになることもある。
それが自分を犠牲にしないで他人も自分も幸せになるアニカの道なのです。
私の先祖についていた龍は、今日は谷津の肩にいるそうです。
私の先祖も龍も、明日、故郷の別府に帰れるのを心待ちにしているのでしょうね。